引っ込み思案
両親,弟,妹,私の5人家族で生まれは北海道、育ちは岩手県の片田舎。
極度な引込み思案な子でした。
他人に”ありがとう”と言えず”どうも”というのがやっとでした。
そんな私に自信を持ち情緒豊かな積極的な子になってほしいとの願いで、ヤマハ音楽教室に通わせてくれたようです。
レッスンバッグとベレー帽がおしゃれでレッスンに行く時その格好をしていくのが嬉しかったです。
グループレッスンは恥ずかしい時もありましたが楽しかったです。
また外遊びが大好きで、山の木のつるに捕まりターザンごっこをしたり、ボール投げ、自転車乗りなど体を動かすのに夢中でした。
消極的な反面、友達の家によく泊まりに行き楽しんでいました。
父がクラシックが好きでよく家族でレコードを聴いていました。
学級委員に
ヤマハ音楽教室で1、2年生までオルガンを習っていました。
グループレッスンは、割と楽しかった記憶があります。
その頃、両親の喧嘩が頻繁にあり、子供たちに乱暴することはないのですが、怒鳴りあう声に怯えながら生活していました。
母から一緒に家出を強制させられたりしました。
夜になると悲しくなり、泣きながら寝ることが多かったです。
私は両親とも嫌いではなかったので、とても辛かったです。
学校では作文や絵など褒められることが多かったです。
小学校を3回転校しました(父の仕事で)。
ピアノはずっと続けていました。
その都度先生に慣れるのに時間がかかったと思いますが、優しく丁寧に教えていただきました。
この頃の発表会ではあまり緊張もせず楽しく発表出来ていました。
学校でも少しずつ自分を出せるようになり、よく学級委員を任され、若干おちゃらけた存在でした。
ピアノがきた!
中学一年の時ようやくピアノを買ってもらえて嬉しかった思い出があります。
担任の先生が音楽の先生で教科書はそこそこ、あとはその先生のオリジナルの曲を授業で歌わせられていました。
それが斬新で楽しく強烈な思い出です。
家庭訪問では、我が家のピアノを使い、気持ち良さそうにオリジナル曲を歌って帰られました。
音楽の楽しみを感じてきた時でした。
2年の途中から埼玉に引っ越しました。
お隣さんがピアノ教室だったのでなんとなく習い続けました。
二人目の先生が親身になり私の進路相談に乗ってくれていました。
ピアノの練習は嫌いであまりやらず、よく母に叱られていました。
受験期はクラシックを離れ、映画ミュージックを弾いていましたが、中断することなく続けていました。
目指せ、音大
高1の音楽の先生が東京音大卒の新任の先生で、少しずつ”学校の先生”に憧れていった気がします。
卓球部で頑張っていたのですが、音大を目指すからには両立は、無理と!アドバイスされ、泣く泣く部活動を断念しました。
その後は早く帰宅しピアノ練習に精を出しました。と言っても3〜4時間くらい。
基礎もきちんとできていないところからのスタートで(精神的に頑張ってたけど)なかなか技術がおぼつかず、楽典、ソルフェージュも電車で2時間ぐらいかかるところに通って勉強しました。
どうにか大学に合格できても成績(ピアノ)は、及第点スレスレだったと思います。
大学時代のピアノの先生とは馬が合わず、ピアノは苦でしかなかったです。
進路を誤ったかと悩んだ時も多くありました。
音楽教育科なので声楽、バイオリン、トランペットを経験できたことが救いでした。
ビクトロンを習い資格をとり教えていました。
お小遣い稼ぎに色々なバイトに精を出し、学生仲間とは楽しいキャンパスライフを送れました。
中学の先生に
以前から憧れていた中学校の音楽教諭になりました。
全国的に中学校が荒れていた時代で授業中、他の教室からほうきを持った男子生徒が大声を出しながら入ってきたり、トイレットペーパーが飛び交ったりと、始めは授業以前の問題でした。
必死の3年間が過ぎ4年目あたりから慣れて充実してきました。
吹奏楽や合唱部の顧問をして生徒達と青春していました。
中学生との関わりが楽しく一生教員を続けたいと思っていました。
先生と結婚
同僚の理科の教員と結婚しました。
主人は中学時代の同級生で、私より2年遅れて同僚教員になりました。
私が中学2年生の音楽の授業で、隣のクラスだった主人が音楽の先生の指示で、私たちのクラスでモーツァルトのトルコ行進曲を弾きました。
弾けることにも驚きましたが、どうして私じゃないの?と憤慨したことを覚えています。
転校してきたばかりの私がピアノを弾けることを知らないから、仕方ない。
と思いつつ、悔しかった思い出があります。
主人は高校、大学と合唱部で二人の趣味が音楽と言うこともあり、気があったのかもしれません。
結婚当初は第九をよく歌いに行っていました。
海外赴任
教員を続けながらの子育てで、保育園にはお世話になりました。
仕事と家庭の両立は大変でしたが、オンとオフが明確だったので、必死ながらも充実していました。
上の子が4歳、下の子が1歳の時、主人の海外赴任が決まり、私の11年間の教員生活に幕を閉じました。
その後専業主婦となり初めての海外生活(ギリシャ)を家族で経験しました。
はじめギリシャ語が全く分からなく、特に病院での症状の説明が大変でした。
子供達はイギリス系幼稚園、日本人学校に通い貴重な経験を親子共々体験しました。
またおおらかなギリシャ人気質に触れ考え方も大きく変化しました。
帰国してからは義父との同居生活(23年間)今となれば 楽しい思い出です。
子育てで葛藤
さかのぼれば長男が生後1ヶ月で川崎病になり生死をさまよったり、。
高校時代は学校の先生のいじめに遭ったりもありました。
今までに見たこともないような落ち込みようで、死を考えてもおかしくないような状況でした。
その状態を見かねた英語の先生が高校留学をすすめてくれました。
思い切って環境を変えるためアメリカに留学しました。
その後は自分を取り戻し、日本に帰国し無事高校も卒業しました。
次男は活動的でどちらかと言うとやんちゃ。
友達が多く大きな悪さはしないものの友達の家によく謝りに行ったり、学校に呼び出されたりとちょこちょこ生徒指導的な経験をさせてもらいました。
私のピアノ教室は ギリシャから帰国後、ご近所さんにピアノを教えて!とお願いされてから!
スタートしたのは今から22年前になります。
同居してい義父、が書道教室を開いており、はじめは同じ部屋にピアノが置いてあったので曜日を変えて始めました。
義父から、小言を言われた事もなく、いつも応援してくれ、厳格ではあったものの心の広い人でした。
3人目出産
40代半ばで三男を出産し、またまた長い子育てに突入しました。
その息子もようやく中学3年生。
3人ともピアノを習いましたが三男が一番好きなようで、今は受験でお休みしていますが合格したら再開すると言っています。
高齢出産でしたが育児は周りの人にたくさん助けてもらい3人の中で一番楽に楽しく子育てが出来ました。
多言語メソッド
8年前にヒッポファミリークラブという多言語研究所に出会い、家族でその活動を楽しんでいます。
英語のみならず21ヶ国語を赤ちゃんのように自然に習得するという考えのもと、老若男女、年齢の垣根を越え活動をしています。
徐々に言葉も心も開かれていってる感じがあります。
海外にホームステイしたり逆に海外の人を受け入れたりという活動をしながら、音楽を通して海外の人ともすぐ仲良くなれること、音楽は言葉だ!!を実感出来できるのも嬉しいです。
4年前に3 B 体操のインストラクターの資格を取り、大好きな体を動かすこと、それも音楽に乗せて、赤ちゃんから年配の人までできる体操という点が気に入り、現在は二つの教室を持っています。
自分にとって、なくてはならない音楽のステージ上に、多言語や体を動かすことが存在しています。
全ては音楽、ピアノが私の礎になっています。
あの苦しかった大学時代のピアノ、それでも続けてきたからこその今があります。自分にとってどれだけピアノが相棒でいてくれたことか!
これからの人生、更に音楽やピアノ、教室経営、パソコン!の勉強をしながら音楽、ピアノの楽しさを生徒さんに伝え、寄り添いながら、生徒さんの明るい未来のお手伝いをしたいと思っています。
メディア
千葉テレビの「モーニングコンパスに」に出演しました。
自己肯定感アップコーチの保科陽子先生開催の『自己肯定感アップセミナー』に参加している様子が放送されました。